丁度予科の三年、十九歳頃のことであったが、私の家は素より豊かな方ではなかったので、一つには家から学資を仰がずに遣って見ようという考えから、月五円の月給で中村是公氏と共に私塾の教師をしながら予科の方へ通っていたことがある。
これが私の教師となった始めで、其私塾は江東義塾と云って本所に在った。
或る有志の人達が協同して設けたものであるが、校舎はやはり今考えて見ても随分不潔な方の部類であった。
丁度予科の三年、十九歳頃のことであったが、私の家は素より豊かな方ではなかったので、一つには家から学資を仰がずに遣って見ようという考えから、月五円の月給で中村是公氏と共に私塾の教師をしながら予科の方へ通っていたことがある。
これが私の教師となった始めで、其私塾は江東義塾と云って本所に在った。
或る有志の人達が協同して設けたものであるが、校舎はやはり今考えて見ても随分不潔な方の部類であった。