或夜のことでした僕は八時頃、山王の山に散歩にゆくと其夜は月で、而も空に一片の雲なく、なまぬるい春風がそよいで何となく人の心をそゝるやうな、くすぐるやうな気持のする、うつとりした晩でした。
溜池橋の上に立て見ると、葉桜の黒い影、夜露にきらめく月影、溜池の上に立籠めた狭霧、見上ぐれば真黒に繁つた山王台、皆な佳い眺めでした。
僕は暫時く橋上に立て眺めて居ましたが、やがて橋を向へ渡ると、此処は麹町区、然し地勢からいふと赤坂に加はへても可いので、山王台は赤坂の者は皆な赤坂のものと思つて居ます、つまり山王台は赤坂の公園と言つても可いので、此処に散歩する者は大概赤坂区の、田町附近の者ばかりです。