もし、個人的に、社会的に、合理的に動きつゝあるなら、そして、かくの如く、必然に向って、働きつゝあるなら、この社会は、いまゝでにも、もっとより善く、より正しくならなければならぬと感じられるからです。
けれど、私達は、いかに、かく都会に喧騒を極めても、このまゝであったら、決して、私達の生活は、光明を望むものでないことをむしろ痛感せざるを得ないのは、なぜでしょうか。
それは暫く措き、都会がいたずらに発達するということも、中央集権的であるということも、従って都会人は、ようやく此生活から離れて行くがために、いよ/\変則的な生活を営むということも、また中央集権的なるが故に、文化がこゝのみに発達して、都会人の生活は、問題にされるが辺土の生活は顧みられないということも、所謂、社会政策というものは、いかなるものかということも、さまざまに考えられるのでした。