無論気分を気分としてあらわすなら、大に悲しいとか、少々嬉しいとか云うだけで、始めから表わせる表わせないの議論をする必要がないのですが、この深いような、広いような、複雑なような気分の対象を、客観的なる非我の世界に見出そうとすると十の気分を一の形相で代表させて、残る九はこの象徴を通じて思い起すようにしなければなりません。
しかしながら元来これは本人すら無理な事をしているのですから、他人にはよほど通用しにくくなる訳であります。
一を聞いて十を知ると云う事がありますが、一を見て十を感ずる人でなければできない事です。