幸子様
東京をよく知らない幸子には、渋谷とか道玄坂附近とか云われても実感が湧いて来ないので、山手電車の窓から見た覚えのある郊外方面の町々、―――谷や、丘陵や、雑木林の多い入り組んだ地形の間に断続している家々の遠景、そのうしろにひろがっている、見るからに寒々とした冴えた空の色など、大阪辺とはまるで違う環境を思い浮かべて、勝手な想像をするより外はなかったが、「背中に水を浴びせられるような」とか「筆を持つ手も凍える」とか云う文句を読むにつけ、万事に旧式な本家では、大阪時代から冬も殆ど煖炉を使っていなかったことを思い出した。
上本町の家では客間に電熱が引いてあって、電気ストーブを取り附けるようにはなっていたけれども、実際に使うのは稀に来客のあった場合、それもよくよく寒い日に限り、平素は火鉢だけだったので、幸子は正月年始に行って姉と対坐していると、いつも「背中に水を浴びせられるような」気持を味わい、風邪を引いて帰って来ることがしばしばあった。