一例を挙げると、或る時同僚の一人が役所の厠の仕切りの中でしゃがんでいると、隣の仕切りに人が這入って来たけはいがして、やがて、「もしもし、あなたは野村さんですか」と、二度繰り返して問う声が聞えた。
その同僚はもう少しで「いえ、僕は何某です」と答えようとしたが、「あなたは野村さんですか」と云うその声が野村氏自身の声に紛れもないので、例のひとりごとだなと心づいた、と同時に、きっと野村氏は隣の仕切りに人がいることを知らないのに違いないと思うと、気の毒になってじっと息をつめていた。
が、なかなか時間が懸かるので、待ちくたびれて先に出てしまったが、顔は見られないで済んだ。