(木村はとうから私のことを「郁子さん」と呼んでいるのである)「いゝえ別に」と、私は云ったが、その時、ついぞないことに、夫の顔がチラリと私の眼の前を掠めた。
どうしてこんな時に夫の顔が浮かんで来たのか不思議であったが、私が一生懸命にその幻影を打ち消すように努めていると、「分っていますよ、先生のことを考えているんですね」と、木村が図星を指して云った。
「どういうわけか、僕も先生のことが気になっていたところなんです」―――そう云って木村は、あれきり閾が高くなって御無沙汰をしているので、近々お伺いしなければならないと思っていた、実は国元へ手紙を出して、鱲子をお届けするように云いつけてやったのだが、まだ届いていないでしょうか、などと云った。