が、源氏にこんな冗談を云わせているのを見ると、此の平中の墨塗りの話は好色漢の失敗談として、既に紫式部の時代に一般に流布していたのであろう。
平中は古今集その他の勅撰集に多くの和歌を遺しているし、系図も一往明かであるし、その頃のいろ/\の物語に現れて来るので、実在した人物であることは紛れもないが、死んだのは延長元年とも六年とも云って確かでなく、生れた年は何の書にも記してない。
今昔物語には、「兵衛佐平定文と云ふ人ありけり、字をば平中とぞ云ひける、御子の孫にて賤しからぬ人なり、そのころの色好みにて人の妻、娘、宮仕人、見ぬは少くなんありける」と云い、又別の所で、「品も賤しからず、形有様も美しかりけり、けはひなんども物云ひもをかしかりければ、そのころ此の平中に勝れたる者世になかりけり、かゝる者なれば、人の妻、娘、いかに況んや宮仕人は此の平中に物云はれぬはなくぞありける」とも云ってあるが、こゝに記す通りその本名は平定文(或は貞文)で、桓武天皇の孫の茂世王の孫に当り、右近中将従四位上平好風の男である。