此の幼童と云うのは、十訓抄には「かの女の若君の、とし五つばかりなるが」とあり、世継物語にも「若君のかひなに書いて」とあって、夫人在原氏と国経との間に生れた男の子、後の少将滋幹のことなのであるが、蓋し此の児だけは、母なる人が本院の館へ連れ去られた後も、乳人などに伴われて自由に出入りすることを許されていたか、又は大目に見て貰っていたのであった。
如才のない平中はかねてからそれに眼をつけ、巧く此の児に取入っていて、或る日此の児が本院の館へ来、母が住んでいる寝殿の、西の対屋で遊んでいるところへ行き通わして、すかさず取次を頼んだのであろう。
それにつけても、彼が何とかしてその人に近づこうと思い、暇があれば此のあたりをうろ/\していた情況が察しられるが、少年の腕に歌を書いたとは、急の場合で紙などの持ち合わせがなかったのか、紙では却って落ち散る恐れがあったからであろうか。