清行はそれを聞いて恐れ畏み、浄蔵に命じて直ちに祈祷を中止せしめたが、浄蔵が病室を退去するや、須臾にして時平は事切れてしまった。
宇多上皇は、上皇の法の弟子である浄蔵が左大臣の邸に於いて最後まで加持祈祷の勤めをせず、中途で退出したことを聞召されて大いに御気色を損ぜられたので、浄蔵は深く勅勘の身を慎み、三箇年の間横川の首楞厳院に籠居して修練苦行の日を送ったと云うが、世間一般の人々は、時平がそう云う死に方をしたことを当然のように考えて、あまり同情する者はなかった。
而も報いは時平一人に止まらず、長く子孫にまで及んだのであって、彼の三人の子息のうち、長男の八条大将保忠は、承平六年七月十四日に四十七歳を以て歿し、三男の中納言敦忠、―――あの新夫人在原氏が生んだ晩年の子は、天慶六年三月七日に三十八歳を以て歿した。