手水を使うにも半挿盥を用うることはなく、寝殿の日隠の間に棚を作らせて、小桶に小さい柄杓をつけておき、毎朝仕丁がそれに湯を入れるだけで、手を洗う時は自ら水をかけに行くようにし、人手を煩わすことはなかった。
そう云う人であったから、右大臣にまで昇進し、後に正二位を贈られたのであるが、此の大臣の孫たちのうちで、三井寺の心誉、興福寺の扶公等、佛門に入った者は恙なきことを得て、大僧都や権僧正の地位に至った。
僧になった者は、此の外にも敦忠中納言の子右兵衛佐佐理、その子の岩倉の菩提房文慶等があり、これらは孰れも佛道に帰依したお蔭で禍を免れることが出来たのであるが、結局昭宣公の長男たる時平の後裔は栄えずにしまって、四男の忠平が、後に従一位摂政関白太政大臣になったのみならず、その一門は皆出世して顕要の職に就いた。