それは菅公が左遷の時、右大弁であった忠平は密かに菅公に同情して兄に与せず、その後も絶えず配所へ消息を通わして、慇懃を結んでいたからであると云われる。
時平の三男の敦忠は、三十六歌仙の一人であって、本院中納言とも、枇杷中納言とも、又土御門中納言とも云われ、百人一首の、「あひ見ての後の心にくらぶれば」の作者として知られているが、「此の権中納言は本院の大臣の在原の北の方の腹に生ませ給へる子也、年は四十ばかりにて形有様美麗になんありける、人柄もよかりければ世のおぼえも花やかにて」と今昔物語も書いているように、時平とは違って、優しい、人好きのする人物であり、一面には母方の曾祖父業平の血を引いた、多感で情熱に富む詩人でもあった。
但し百人一首一夕話に、夫人在原氏は国経の館から時平に拉し去られる時に、既に敦忠を懐妊していた、されば敦忠はまことは国経の胤であるが、夫人が本院へ移ってから生れたゝめに、時平の子として育てられたのであると云う記事が見える。