此の敦忠が天慶六年に早世してからは、禁中で管絃の御遊がある時は博雅三位がなくてはならない人になり、三位に差支えがあるとその日の御遊を中止し給うようになったが、故老たちはそれを聞いて、今は世が末で管絃の名手もいなくなった、敦忠中納言が存生中は、博雅三位が左様に重んぜられることはなかったのに、と云って歎いたと云う。
此の一事を以ても、敦忠の死が人々に惜しまれたこと、又敦忠が和歌ばかりでなく、管絃の道にも秀でゝいたことが偲ばれるのである。
参議藤原玄上の女子で、皇太子保明親王の御息所に上った人があったが、敦忠がまだ左近少将であった時分に、お二人の間の後朝の使を勤めさせられたものであった。