これは残缺で、遒古閣本以外にも写本が二三あるようだけれども、何処にも完本は伝わっておらず、大体に於いて天慶五年の春頃から以後七八年の間に亙って、折々書き継がれたらしく思われるものが、部分的に残っているだけであるが、その内容は、殆ど全部が母を恋い慕う文字で埋まっているのである。
ところで、滋幹の生母は即ち敦忠の生母であることは読者も御承知の通りであるが、此の母はいつ頃まで生きていたのであろうか。
われ/\は拾遺集巻五賀の部所載源公忠の、「萬代もなほこそあかね」の歌の詞書に依って、権中納言敦忠が母のために賀筵を設けたことがあるのを知り、その賀は多分五十の賀であろうことを推定するのであるが、滋幹の日記を見ると、敦忠の死んだ明くる年、天慶七年にもまだ此の母はながらえていたのであって、それは実に、彼女の第二の夫であった贈太政大臣時平の死後三十五年の星霜を経てい、彼女は当時六十歳前後、滋幹は四十四五歳に達していたであろう。