だが、滋幹は、そんなに母と云うものに憧れつゞけながら、どうして彼女に近寄ろうとしなかったのであろうか。
左大臣の存生中は兎も角も、大臣が卒去してからは、逢うのに格別の支障もないように思えるけれども、敦忠をさえ避けるようにしていたとすれば、まして母を訪うことなどは、彼の地位として差控えなければならなかったのであろうか。
それについて滋幹の日記は云う、―――自分は十一二歳の頃、幾度か母に逢いたいと云う望みを洩らしたことがあったが、世間のことはそう簡単に行くものではありませぬ、お母さまはもう餘所のお家の人なのですと、そのつど乳人に戒められた。