とあるのに徴して明かで、その頃の京都の市中から馬を走らせて行く分には、左程の道のりではなかったであろう。
恰も当時滋幹は、しば/\叡山の横川に定心房良源を訪ねて佛の教を聴いていたので、彼がもしその帰るさに道を雲母坂に取って下山したならば、つい母の住む麓の里へ出られたのであった。
そして実際、彼は折々山の上から西坂本の空を眺めて恋々としたこともあり、足が知らず識らずその方へ向きかけたこともあったが、いつも自分で自分を制して、ことさら外の道を選ぶようにしていたのであった。
とあるのに徴して明かで、その頃の京都の市中から馬を走らせて行く分には、左程の道のりではなかったであろう。
恰も当時滋幹は、しば/\叡山の横川に定心房良源を訪ねて佛の教を聴いていたので、彼がもしその帰るさに道を雲母坂に取って下山したならば、つい母の住む麓の里へ出られたのであった。
そして実際、彼は折々山の上から西坂本の空を眺めて恋々としたこともあり、足が知らず識らずその方へ向きかけたこともあったが、いつも自分で自分を制して、ことさら外の道を選ぶようにしていたのであった。