でも、そう云えばさっきから餘程の時が過ぎているのに、滋幹の彳んでいる所から、向うのこま/″\とした景色がこんなに鮮かに見えるのは、―――花が雪あかりのような作用をして、あたりの物象を暗まぎれから浮き上らせているのであろうか、―――と、ちょっと滋幹はそんな気がしたが、それは花のあかりではなくて、花の上の空にかゝった月が、今しも光を増して来たのであった。
土の上はしっとりと湿っていて、空気の肌ざわりはつめたいのだけれども、空は弥生のものらしくうっすらと曇って、朧々と霞んだ月が花の雲を透して照っているので、その夕桜のほの匂う谷あいの一郭が、幻じみた光線の中にあるのであった。
嘗て滋幹は幼少の折に、父の跡をつけて野路を行き、青白い月光の下で凄惨な場面を目撃したことがあったが、あれは秋の真夜中の鋭く冴えた月であって、今日のようなどんよりした、綿のように柔かく生暖かい月ではなかった。