かくして十五歳の夏から約半歳の間は幸い同室の朋輩の外に誰にも知られずに済んだのであったがその年の冬に至って一つの事件が起ったある夜明け方と云っても冬の午前四時頃まだ真っ暗な夜中も同然の時刻に、鵙屋の御寮人すなわち春琴の母のしげ女がふと厠に起きてどこからともなく洩れて来る「雪」の曲を聞いたのである。
昔は寒稽古と云って寒中夜のしらしら明けに風に吹き曝されながら稽古をするという習慣があったけれども道修町は薬屋の多い区域であって堅儀な店舗が軒を列ね遊芸の師匠や芸人などの住宅のある所でもなしなまめかしい種類の家は一軒もないのであるそれにしんしんと更けた真夜中、寒稽古にしても時刻があまり突飛過ぎる、寒稽古なら一生懸命撥音たかく弾くであろうに微かな爪弾きで弾いているそのくせ一つ所を合点の行くまで繰り返して練習しているらしく熱心のさまが想いやられた。
鵙屋の御寮人は訝しみながらもその時は大して気にも止めず寝てしまったがその後二三度も夜中起き出でるごとに耳についたことがありそう云えば私も聞きましたどこで弾いているのでござりましょう、狸の腹鼓とも違うようでござりますなどと云う者も出て来て店員たちの知らぬ間に奥で問題になっていた。