当時佐助は五つ六つの曲をどうやらこなすまでに仕上げていたので知っているだけを皆やってみよと云われるままに度胸を据えて精限り根限り弾いた「黒髪」のようなやさしいものや「茶音頭」のような難曲や素より何の順序もなく聞き噛りで習ったのであるからいろいろのものを不規則に覚えていたのである鵙屋の家族は佐助が邪推したように笑い草にする積りであったかも知れないが、短時日の独稽古にしてはかんどころも確かなら節廻しも出来ていることが分って聴いた後には皆感心した
春琴伝に曰く「時に春琴は佐助が志を憐み、汝の熱心に賞でて以後は妾が教えて取らせん、汝余暇あらば常に妾を師と頼みて稽古を励むべしと云い、春琴の父安左衛門もついにこれを許しければ佐助は天にも昇る心地して丁稚の業務に服する傍日々一定の時間を限り指南を仰ぐこととはなりぬ。
かくて十一歳の少女と十五歳の少年とは主従の上に今また師弟の契を結びたるぞ目出度き」と。