しかし彼女の年齢境遇等に照らしにわかに独立する必要があったろうとは考えられないこれは恐らく佐助との関係を慮ったのであろうというのは、もはや公然の秘密になっている二人をいつまで曖昧な状態に置いては奉公人共の示しが付かずせめて一軒の家に同棲させるという方法を取ったので春琴自身もその程度ならあえて不服はなかったのであろう。
もちろん佐助は淀屋橋へ行ってからも少しも前と異った扱いはされなかったやはりどこまでも手曳きであったその上検校が死んだので再び春琴に師事することになり今は誰に遠慮もなく「お師匠様」と呼び「佐助」と呼ばれた。
春琴は佐助と夫婦らしく見られるのを厭うこと甚しく主従の礼儀師弟の差別を厳格にして言葉づかいの端々に至るまでやかましく云い方を規定したまたまそれに悖ることがあれば平身低頭して詑まっても容易に赦さず執拗にその無礼を責めた。