ある時佐助齲歯を病み右の頬が夥しく脹れ上り夜に入ってから苦痛堪え難きほどであったのを強いて怺えて色に表わさず折々そっと合嗽をして息がかからぬように注意しながら仕えているとやがて春琴は寝床に這入って肩を揉め腰をさすれと云う云われるままにしばらく按摩しているともうよいから足を温めよと云う畏まって裾の方に横臥し懐を開いて彼女の蹠を我が胸板の上に載せたが胸が氷のごとく冷えるのに反し顔は寝床のいきれのためにかっかっと火照って歯痛がいよいよ激しくなるのに溜りかね、胸の代りに脹れた頬を蹠へあてて辛うじて凌いでいるとたちまち春琴がいやと云うほどその頬を蹴ったので佐助は覚えずあっと云って飛び上った。
すると春琴が曰くもう温めてくれぬでもよい胸で温めよとは云うたが顔で温めよとは云わなんだ蹠に眼のなきことは眼明きも盲人も変りはないに何とて人を欺かんとはするぞ汝が歯を病んでいるらしきは大方昼間の様子にても知れたりかつ右の頬と左の頬と熱も違えば脹れ加減も違うことは蹠にてもよく分るなりさほど苦しくば正直に云うたらよろしからん妾とても召使を労わる道を知らざるにあらずしかるにいかにも忠義らしく装いながら主人の体をもって歯を冷やすとは大それた横着者かなその心底憎さも憎しと。
春琴の佐助を遇することおおよそこの類であった分けても彼が年若い女弟子に親切にしたり稽古してやったりするのを懌ばずたまたまそういう疑いがあると嫉妬を露骨に表わさないだけ一層意地の悪い当り方をしたそんな場合に佐助は最も苦しめられた