いかに春琴が音曲の才能に恵まれていても人生の苦味酸味を嘗めて来なければ芸道の真諦に悟入することはむずかしい彼女は従来甘やかされて来た他人に求むるところは酷で自分は苦労も屈辱も知らなかった誰も彼女の高慢の鼻を折る者がなかったしかるに天は痛烈な試練を降して生死の巌頭に彷徨せしめ増上慢を打ち砕いた。
思うに彼女の容貌を襲った災禍はいろいろの意味で良薬となり恋愛においても芸術においてもかつて夢想だもしなかった三昧境のあることを教えたであろうてる女はしばしば春琴が無聊の時を消すために独りで絃を弄んでいるのを聞いたまたその傍に佐助が恍惚として項を垂れ一心に耳を傾けている光景を見たそして多くの弟子共は奥の間から洩れる精妙な撥の音を訝しみあの三味線には仕掛けがしてあるのではないかなどと呟いたと云う。
この時代に春琴は弾絃の技巧のみならず作曲の方面にも思いを凝らし夜中密かにあれかこれかと爪弾きで音を綴っていたてる女が覚えているのに「春鶯囀」と「六の花」の二曲があり先日聞かしてもらったが独創性に富み作曲家としての天分を窺知するに足りる