原文の方はどうか分らぬが、写しの方は誤字誤文が夥しく、振り仮名等にも覚束ない所が多々あって、到底正式の教養ある者の筆に成ったとは信ぜられない。
しかしその文によると、この家の祖先は奈良朝以前からこの地に住し、壬申の乱には村国庄司男依なる者天武帝のお味方を申して大友皇子を討ち奉った。
その頃庄司は当村より上市に至る五十丁の地を領していたので、菜摘川と云う名はその五十丁の間の吉野川を呼ぶのであると云う。
原文の方はどうか分らぬが、写しの方は誤字誤文が夥しく、振り仮名等にも覚束ない所が多々あって、到底正式の教養ある者の筆に成ったとは信ぜられない。
しかしその文によると、この家の祖先は奈良朝以前からこの地に住し、壬申の乱には村国庄司男依なる者天武帝のお味方を申して大友皇子を討ち奉った。
その頃庄司は当村より上市に至る五十丁の地を領していたので、菜摘川と云う名はその五十丁の間の吉野川を呼ぶのであると云う。