しかしその文によると、この家の祖先は奈良朝以前からこの地に住し、壬申の乱には村国庄司男依なる者天武帝のお味方を申して大友皇子を討ち奉った。
その頃庄司は当村より上市に至る五十丁の地を領していたので、菜摘川と云う名はその五十丁の間の吉野川を呼ぶのであると云う。
さて義経に関しては、「また源義経公川上白矢ガ嶽にて五月節句をお祝遊されそれより御下りこれあり村国庄司内にて三四十日被遊御逗留宮滝柴橋御覧有りその時御詠みの歌に」として二首の和歌が載っている。
しかしその文によると、この家の祖先は奈良朝以前からこの地に住し、壬申の乱には村国庄司男依なる者天武帝のお味方を申して大友皇子を討ち奉った。
その頃庄司は当村より上市に至る五十丁の地を領していたので、菜摘川と云う名はその五十丁の間の吉野川を呼ぶのであると云う。
さて義経に関しては、「また源義経公川上白矢ガ嶽にて五月節句をお祝遊されそれより御下りこれあり村国庄司内にて三四十日被遊御逗留宮滝柴橋御覧有りその時御詠みの歌に」として二首の和歌が載っている。