親類の誰彼、伯父伯母などに聞いてみても、母の里方については、不思議に知っている者がなかった。
ぜんたい津村家は旧家であるから、あたりまえなら二代も三代も前からの縁者が出入りしているはずであるが、母は実は、大和からすぐ彼の父に嫁いだのでなく、幼少の頃大阪の色町へ売られ、そこからいったん然るべき人の養女になって輿入れをしたらしい。
それで戸籍面の記載では、文久三年に生れ、明治十年に十五歳で今橋三丁目浦門喜十郎の許から津村家へ嫁ぎ、明治二十四年に二十九歳で死亡している。
親類の誰彼、伯父伯母などに聞いてみても、母の里方については、不思議に知っている者がなかった。
ぜんたい津村家は旧家であるから、あたりまえなら二代も三代も前からの縁者が出入りしているはずであるが、母は実は、大和からすぐ彼の父に嫁いだのでなく、幼少の頃大阪の色町へ売られ、そこからいったん然るべき人の養女になって輿入れをしたらしい。
それで戸籍面の記載では、文久三年に生れ、明治十年に十五歳で今橋三丁目浦門喜十郎の許から津村家へ嫁ぎ、明治二十四年に二十九歳で死亡している。