それはまだ母が勤め奉公時代に父と母との間に交された艶書、大和の国の実母らしい人から母へ宛てた手紙、琴、三味線、生け花、茶の湯等の奥許しの免状などであった。
艶書は父からのものが三通、母からのものが二通、初恋に酔う少年少女のたわいのない睦言の遣り取りに過ぎないけれども、互に人目を忍んでは首尾していたらしい様子合いも見え、殊に母のものは「………おろかなりし心より思し召しをかえりみず文さし上候こなた心少しは御汲分け………」とか「ひとかたならぬ御事のみ仰下されなんぼうか嬉しくぞんじ色々耻かしき身の上までもお咄申上げ………」とか、十五の女の児にしては、筆の運びこそたどたどしいものの、さすがにませた言葉づかいで、その頃の男女の早熟さが思いやられた。
次に故郷の実家から寄越したのは一通しかなく、宛名は「大阪市新町九軒粉川様内おすみどの」とあり、差出人は「大和国吉野郡国栖村窪垣内昆布助左衛門内」となっていて、「此度其身の孝心をかんしん致候ゆえ文して申遣し参らせ候左候えば日にまし寒さに向い候え共いよいよかわらせなく相くらされこのかたも安心いたし居候ととさんと申かかさんと申誠に誠に難有………」と云うような書き出しで、館の主人を親とも思い大切にせねばならぬこと、遊芸のけいこに身を入れること、人の物を欲しがってはならぬこと、神仏を信心することなど、教訓めいたことのかずかずが記してあった。