下野どのゝお考では、江南と江北とは昔からたび/\いくさをする、今はおさまっているようなれどもいつまた合戦がおこらないとも限らないから、和議のしるしに江南とこんいんを取りむすんだら、ゆくすえ国の乱れるうれいがないであろうと、左様に申されるので厶りましたけれど、備前守どのは佐々木の家臣の聟となると云うことをどうしてもおよろこびになりませなんだ。
しかし父御のおいいつけでござりますから是非なく承引なされまして、ひらい殿のひめぎみを一たんはおもらいになりましたものゝ、そのゝち江南へ出むいて加賀守と父子の盃をしてまいれと云う久政公の仰せがありましたとき、これはいかにもむねんだ、父のめいをそむきかねて平井ふぜいのむこになるさえくちおしいのに、こちらから出かけて行っておやこのけいやくをするなどゝは以てのほかだ、弓馬の家にうまれたからは治乱の首尾をうかゞって天下に旗をあげ、やがては武門の棟梁ともなるように心がけてこそ武士たるものゝ本懐だのにと仰っしゃって、とう/\その姫ぎみを、久政公へは御そう談もなしに里へかえしておしまいになりました。
それはまあ、あまりと申せば乱暴な仕方で、てゝごの御腹立なされましたのも御尤もではござりますけれども、まだ十五六のおとしごろでそういう大きなこゝろざしを持っていらっしゃると云うのは、いかにも尋常なお方でない、浅井の家をおこされた先代の亮政公に似かようて、うまれながらに豪傑の気象をそなえていらっしゃる、こういう主君をいたゞけばお家の御運は万々代であろう、まことにあっぱれなお方だと、御家来しゅうがみな備前どのゝ御器量をおしたい申して、てゝごの方へは出仕するものもないようになりましたので、ひさまさ公もよんどころなく家督をびぜんどのへおゆずりになりまして、ごじしんは奥方の井の口殿をおつれになって、竹生島へこもっていらしったこともあるそうでござります。