おとこのお子たちはまだいとけのうござりましたけれども、敵の手におちてはあやういと申されて、総りょうのまんぷく丸どのはえちぜんのくに敦賀郡のしるべをたよりに、二十八日の夜おそく、きむら喜内之介と申す小姓をつけてそっとおしろからお出しになり、すえの若ぎみは、当国の福田寺へあずけられることになりまして、これもその夜のうちに、小川伝四郎中島左近と申すさむらい二人に乳母がつきそうて、ふくでん寺のちかくの湖水のきしに船をよせられ、しばらく蘆のしげみのあいだにひそんでおられたと申すことでござります。
おくがたは二じゅうはち日の夜ひとよ、ながまさ公とおんわかれの盃をおかわしになりましたが、つきぬおん名残りにさま/″\のおんものがたりをあそばすうちに、秋の夜ながもいつのまにかあけてしまいましたので、それではと申されて、ひがしの方がもうしら/″\とあかるい時分、おしろの門からおのりものにおめしになりました。
つゞく三つのお乗りものにはさんにんの姫たちが乳母とごいっしょにお召しになりまして、藤掛三河守と申す、お輿入れのおり織田家からついてまいりました奥向きの御けらいが、てぜいをつれて前後をおまもり申し上げ、そのほかに二三十人のお女中がたがおともをいたして小谷をあとになされました。