なれども、このおり、岐阜においては三七どのがふたゝび上方をてきになされて柴田がたに内応あそばし、やまとの筒井じゅんけいどのも日ならずうらぎりをなさる手筈がきまっておりましたそうでござります。
それにひでよし公はちりゃくこそすぐれておられましたけれども、武勇にかけてはかついえ公の方にばつぐんのほまれがござりましたし、わけて織田どのゝ御家老として大名がたも帰服いたされ、としいえ公はじめ佐久間、原、不破、金森のかた/″\など、たのもしき弓取りたちをしたがえておられましたことゝて、たれがあれまでのはいぐんになろうとおもいましょうや。
やながせ、しずがたけのかっせんの始終は三さいの小児までも知っていることでござりますから、いまさら何を申しましょうなれども、かえす/″\もくちおしゅうござりますのは玄蕃どのゝ御油断でござります。