北の庄では卯月廿日にさくま玄蕃どのがてきのとりでを攻めおとされ、なかゞわ瀬兵衛尉どのゝ首を討ったと申すしらせがござりまして、たいそうおよろこびあそばされ、さいさきよしとおぼしめしていらっしゃいますと、江北の方ではその夜中に美濃路よりつゞく海道すじや峰々山々にたいまつのひかりがあらわれて廿日の月しろをくらますほどに空をこがし、しだいに万燈会のごとくおびたゞしい数になりまして、ひでよし公が大柿より夜どおしでお馬をかえされたらしく、廿一日の暁天にあたって余吾のみずうみのかなたがにわかにさわがしく相成、玄蕃どのゝ御陣もあやういと申してまいりました。
その飛脚のつきましたのが同じ日の未の刻さがりでござりましたが、そのうちにはや落ち武者がぽつ/\逃げかえってまいりまして、味方はそうはいぼくにおよび、とのさまも御運のすえらしいと申すことでござりました。
おしろではあまりのことにおどろきあきれ、よもやとおもっておりますと、日のくれがたに勝家公むざんのありさまにて御帰城あそばされ、しばた弥右衛門のじょうどの、小島わかさのかみどの、中村文荷斎どの、徳菴どのなどをおめしになりまして、玄蕃もりまさがわがいいつけをまもらぬばかりに越度を取ったぞ、それがし一代のこうみょうもむなしくなったが、これも前世のいんがであろうとおっしゃって、いまはおかくごのほどもすゞしく、さすがにとりしずめていらっしゃいました。