○佐久間軍記佐久間常関物語勝家祝言の条に云う「浅井長政ノ後室ヲ嫁勝家勝家其息女三人トモニ携越前ニ帰ルノ時秀吉走勝家于使曰於帰国道使秀勝信長四男秀吉養子饌膳祝儀ヲ可賀ト勝家慶テ約諾ス然シテ勝家ノ家人等北庄ヲ発清洲迄ノ行路ニ来迎勝家夜半ニ清洲ヲ出告秀勝曰越前ニ急用アルヲ以テ道ヲカネテ夜半ニ此前ヲ通ル間不能応招云々」
○志津ヶ岳合戦事小須賀九兵衛話には清洲会議を安土に作る、当時「挨拶及相違て柴田と太閤互に怒をふくむ其時丹羽長秀太閤と一処に寐ころひ有しか長秀そと足にて太閤に心を付太閤被心得其夜大坂へ御かへり云々」佐久間軍記には「秀吉其夜屡小便ニヲクル」とあり然れどもこれらのこと甫庵太閤記等には見えず不審也
○蒲生氏郷後室の墓は今京都の百万遍智恩寺境内に在り、寛永十八年五月九日於京都病没、行年八十一歳、法名相応院殿月桂凉心英誉清熏大禅定尼、秀吉此の後室の容顔秀麗なるを知り氏郷の死後迎えて妾となさんとしたれども後室これを聴かず、ために蒲生家は会津百万石より宇都宮十八万石に移さる、委しくは氏郷記近江日野町誌を可見