そして河内介は、兎も角も牡鹿城内に於いては此の会合に出る資格のある、少数の一人だったのである。
蓋し、世に伝わる武州公の和歌と云うものを見るのに、武人の作としては略〻体を備えていて、相当の素養があったことを示しているけれども、それは恐らく此の歌の会などに刺戟されて歌道の忽がせにすべからざることを悟り、後年努めて修練を積んだ結果なので、此の話の頃は二十歳の若年であったから、格別歌が上手と云う程ではなかったであろう。
しかし今も云うような訳で、周囲が無学文盲揃いであったとすると、幼時より文武両道の教育を受けた彼などは、誰よりも先に出席すべき義務があったことは明かである。