右の耳にいたし候へと被仰候得者、忝くも松雪院様雪の如き御手を以て愚老が右の耳朶をお持ちなされ、暫く首の態をお改め被遊、鼻声にて低くお笑ひ被成候、瑞雲院様傍より御覧なされ、心臆し候哉とお尋ねなされ候ところ、につことゑみを浮べ給ひ、何しに臆し侍らん、されど此の死顔の態を御覧ぜよ、定めし坊主奴は生きたる空もなき心地にて侍らんものを、かく神妙に首の姿を真似候て何事も知らざるやうに見え候ことの可笑しさよとて、右の御手に刀子を持ち直し給ひ、そのまゝづぶとお突き遊ばされ候得者、血少しばかり流れ出で、勿体なくも白妙の御手を汚し候、愚老はかくても聊か動ずる気色もなく死せるが如くにて候ひしかば、さりとては辛抱強き坊主よとてお笑ひなされしかども、さすがに興ざめ給ひしにや、そのゝちは格別のこともなく、匇々に札をお附け被成、急ぎ御夫婦とも蚊帳の内へ御入被遊候、尤も夜半に及ぶまで睦じき御物語の御様子にて、おん仲至極めでたかりし事共也
又曰く、
それより後は絶えて首の御用を被仰出候ことなく、かの床穴をも舊の通りに被令修理候、程経て御前へ罷出候得者、松雪院様何とやらん面はゆげに愚老が耳の傷痕を見そなはせられ、かの砌は女の身として酒興に乗じ便なきことをし侍りぬ、許せよと被仰候、何共恐入候儀にて唯々難有事に奉存候、素より賤しき身にて候得者たとひ御手討に被成候とも何かは苦しかるべきに、一命をお助け被下し上は、かばかりの傷は物の数にても候はず、剰へ御自ら御手を下し給ひしは生々世々の面目とこそ存候へとて、しばし感涙に咽び候。