又曰く、
それより後は絶えて首の御用を被仰出候ことなく、かの床穴をも舊の通りに被令修理候、程経て御前へ罷出候得者、松雪院様何とやらん面はゆげに愚老が耳の傷痕を見そなはせられ、かの砌は女の身として酒興に乗じ便なきことをし侍りぬ、許せよと被仰候、何共恐入候儀にて唯々難有事に奉存候、素より賤しき身にて候得者たとひ御手討に被成候とも何かは苦しかるべきに、一命をお助け被下し上は、かばかりの傷は物の数にても候はず、剰へ御自ら御手を下し給ひしは生々世々の面目とこそ存候へとて、しばし感涙に咽び候。
その傷痕今も愚老が右の耳にあり、貴き御方の御慰みに遊ばされ候形見かと思へば、まことに此の耳我が物にして我が物にあらずと覚ゆる也