抑此事の由来を尋ぬるに、去んぬる弘治三年の秋薬師寺家の家老馬場和泉守石山本願寺の勢を頼みて主家を横領しければ、淡路守政秀公父祖代々の領地を被逐堺の津より中国へ落延給ひ、その後遂に行衛だにも知れざりけり。
然るに則重公の夫人桔梗の方と申せしは淡路守の御妹君におはしければ深くも此れを歎き給ひ、先年当家は将軍家の御扱ひに依て薬師寺家と縁者の誼みを結び、良く水魚の交りを可致由誓紙をかはし侍りしに、今度薬師寺家の滅亡を見ながら和泉守の不義不忠を其儘に捨置、舅の仇を報いんともせざるは寔に武門の耻辱にこそと思はれけれども、則重公近頃の容態にては中々に力不及、云ふ甲斐なき夫を持ちけるよと心憂く思召されける折柄、或夜夫の寝顔の上に不覚はら/\と数行の御涙を落し給ふ。
則重公ふと眼覚めて訝み給ひ、何とて泣給ぞと有仰。