則重公聞召され、其方共わが妻の言を疑ふやとて御気色悪敷奥の間へ入給ひけるが、其後も北の方様々に歎き被申、仮令此状に不審ありとも一向宗の輩は和泉守に力を合せ兄淡路守を逐ひ侍りしこと隠れもなし、されば檜垣の衆とても必定敵にて侍るものを早や/\誅戮を加へて賜べとて、夜な/\掻口説き給ける。
然るにいかゞしたりけん、此事いつしか檜垣へ洩れ聞えければ、宗徒共意外の思ひをなし、我等年来筑摩殿に対し少しも異心を存ぜざりしところに故なく討手を向けらるゝこそ安からね、よし其儀ならば坐して滅亡を招かんよりは此方より攻入つて武勇の程を示さんには不如とて、去年の冬頃より内々人数を狩り催す云々」と。
按ずるに、牡鹿城没落の端緒が此の一向衆との争いに発したことは正史の記す通りであろう。