按ずるに、牡鹿城没落の端緒が此の一向衆との争いに発したことは正史の記す通りであろう。
しかし桔梗の方をそゝのかして則重を口説き落し、遂に檜垣の宗徒等と事を構えるようにさせた黒幕が、武州公であったろうことは略〻想像がつくのである。
如何となれば、多聞山の城では此の少し前、永禄元年十月に武蔵守輝国が卒去したので、河内介は父の家督を継いで武蔵守輝勝を名告り、今やその勃々たる雄心に誰も掣肘を加える者がなく、自由に壮図を畫することが出来る時機に達していた。
按ずるに、牡鹿城没落の端緒が此の一向衆との争いに発したことは正史の記す通りであろう。
しかし桔梗の方をそゝのかして則重を口説き落し、遂に檜垣の宗徒等と事を構えるようにさせた黒幕が、武州公であったろうことは略〻想像がつくのである。
如何となれば、多聞山の城では此の少し前、永禄元年十月に武蔵守輝国が卒去したので、河内介は父の家督を継いで武蔵守輝勝を名告り、今やその勃々たる雄心に誰も掣肘を加える者がなく、自由に壮図を畫することが出来る時機に達していた。