蓋し前掲の引用文に見える的場新三郎は、かの的場図書、及び的場大助の弟であるに違いないから、桔梗の方と武州公とが豫め示し合わせ、此の男に偽造文書を托して、牡鹿山と檜垣御坊との離間を策したのであろう。
斯くて前記永禄二年己未の正月、織部正の命を受けて志太遠江守の軍勢は浅沼郡へ進発したが、檜垣の門徒等は在々所々の土民百姓共を使嗾して至る所に一揆を起させ、筑摩領と檜垣領との国境にある朝出川の河原に討手を迎えて火の出るように戦ったので、筑摩方は敵に倍する人数であったにも拘わらず、散々に討ち破られて牡鹿城へ逃げ帰った。
城中よりはその後再び軍勢を差し向けたけれども、それも負け戦に終ってしまい、勝ち誇ったる檜垣衆は日増しに猛威を逞しゅうして、領内を荒らし廻り、僅か一と月ばかりの間に方々の子城を攻め落すと云う有様であった。