城中よりはその後再び軍勢を差し向けたけれども、それも負け戦に終ってしまい、勝ち誇ったる檜垣衆は日増しに猛威を逞しゅうして、領内を荒らし廻り、僅か一と月ばかりの間に方々の子城を攻め落すと云う有様であった。
初め一向宗の者共は、自分たちの生存を脅かされたゝめに奮起したので、元来は受け身の立ち場であったが、戦をしてみると思いの外弱い敵なので、だん/\図に乗って来たのであった。
これは彼等が侮り難い武備と実力とを持っていたからではあるけれども、一つには筑摩家の方に最早や昔日の権勢がなく、国中の政治が乱れ、侍共の士気が衰えていた證拠で、一閑斎の時代であったら、門徒の坊主共が暴れ出したぐらいで、こんな騒ぎになりはしなかったであろう。