此の持久戦が三月から四月に亙り、一箇月半程つゞいたが、檜垣衆は五月になって、多聞山の城主武州公の許へ公然と加勢を求めて来たのである。
いったい檜垣衆の立て籠る浅沼郡は、筑摩家の本領と武州公の本領の中間に介在していて、筑摩家の方は西、武州家の方は東にあった。
それで最初、筑摩将監が発向する時、多聞山へ使者を立てゝ敵の背後を衝くようにと云う命令を伝えたのであったが、武州公はそれを体よく断ってしまった。
此の持久戦が三月から四月に亙り、一箇月半程つゞいたが、檜垣衆は五月になって、多聞山の城主武州公の許へ公然と加勢を求めて来たのである。
いったい檜垣衆の立て籠る浅沼郡は、筑摩家の本領と武州公の本領の中間に介在していて、筑摩家の方は西、武州家の方は東にあった。
それで最初、筑摩将監が発向する時、多聞山へ使者を立てゝ敵の背後を衝くようにと云う命令を伝えたのであったが、武州公はそれを体よく断ってしまった。