公は六月中旬に八千餘騎を従えて多聞山を進発し、直ちに浅沼郡に入って檜垣勢と一所になったが、それでなくても攻めあぐんでいた筑摩方は、殆ど戦わずして陣を撤したので、忽ち栗生椎原の二郡を恢復した。
公と檜垣勢の聯合軍は敵を追って前進を続けたが、沿道の城主共は風を望んで麾下に属する者が多く、月形城も亦それに呼応して明瞭に叛旗を飜し、盛んに近隣を攻略し出した。
が、それらの合戦の状況は「筑摩軍記」に譲ることにして、茲には説くまい。
公は六月中旬に八千餘騎を従えて多聞山を進発し、直ちに浅沼郡に入って檜垣勢と一所になったが、それでなくても攻めあぐんでいた筑摩方は、殆ど戦わずして陣を撤したので、忽ち栗生椎原の二郡を恢復した。
公と檜垣勢の聯合軍は敵を追って前進を続けたが、沿道の城主共は風を望んで麾下に属する者が多く、月形城も亦それに呼応して明瞭に叛旗を飜し、盛んに近隣を攻略し出した。
が、それらの合戦の状況は「筑摩軍記」に譲ることにして、茲には説くまい。