されば、桔梗の方も此の時一緒に救い出されたことは云う迄もない。
しかしその真相を知っていた者は、当時奥御殿へ駈けつけた少数の兵があるのみで、檜垣衆も、横輪勢も、又武州公の麾下の大部分も、織部正夫妻は焼け死んでしまったものと信じていた。
「道阿弥話」の伝えるところでは、そのゝち則重と北の方とは密かに多聞山の城中に移され、三の谷の奥に新たにしつらえた御殿に押し籠められていたので、家中の者共はその御殿のことを「三の谷殿」と呼んでいたが、誰あって御殿の主を知る者はなく、公が夜更けており/\そこへ通うことも、道阿弥その他側近の者が心得ていたばかりであると云う。