なぜかと云うのに、彼はもう柄にない政治や軍務に頭を使う必要がなくなり、敵の情深い手当てを受けて衣食住には少しも不自由をしなかったし、殊に、牡鹿山落城の間際に落してやった一男一女のうち、若君の方は捜し出されて人知れず殺されたらしいのであるが、「お浦どの」と云われた姫君の方は、やがて此の御殿へ引き取られて来たので、親子三人が佗びしいながらも慰め合って、しずかな団居を楽しむことが出来たからである。
いや、そればかりでなく、牡鹿山の落城を一転期として、桔梗の方の心境にも亦自ら変化が起った。
彼女は最早や夫の破滅を享楽する残忍性を捨てゝしまって、其の本然の女らしい性質に復り、嘗て自分が害を加えた醜い夫の容貌に心からなる同情と憐愍とを注ぎながら、貞淑な妻として、また慈愛深き母として、前半生の過誤と罪悪とを償うように努めたので、茲に始めて完全な夫婦の愛が成立し、織部正は未だ経験したことのない感激に充ちた生活を送った。