いつであったか四月の末のあたたかい日に壬生狂言を見に行ったとき、お寺の境内のうらうらとした春の気分が桟敷にいてもうっとり睡けを催して、遊んでいる子供たちのガヤガヤ云う話声や、露店で駄菓子やお面を売っている縁日商人のテント張りがびいどろのように日に光るのや、その他いろいろの雑音が舞台で演ぜられている狂言の、間伸びのした悠長な囃しと一つに融けて聞えて来る中で、ついとろとろと好い心持に眠りこけては、又はっとして眼をさます。
二度も三度も、とろとろとしてははっと眼をさます。
………その同じ事を何度か繰り返すのであるが、眼をさます毎に舞台を見ると、さっきの狂言がまだ続いていて、悠長な囃しが依然として聞え、桟敷の外は相変らず日がうらうらとテント張りに光っていて子供たちがガヤガヤ遊んでおり、長い春の一日はいつになっても暮れることは知らないかのように、………昼寝をしながらまとまりのない夢のかずかずを幾つともなく夢みてはさめ、夢みてはさめしたかのように、………太平の御代の有り難さと云おうか、桃源の国と云おうか、久しぶりに浮世を離れたのんびりとした心持になって、こんなことは幼い時分に人形町の水天官で七十五座のお神楽を見た以来であると思ったが、この小屋掛けの中の気分はちょうどあれと同じである。