要がはじめて知った時分には、彼女は今ほど耄碌してはいなかった。
生れは英吉利のヨークシャアで、何とか云う女学校を出て、立派な教育を受けたと云うのを自慢にして、日本に十何年もいながらどんな時にも日本語は一と言もしゃべったことがなく、大概な女たちが植民地英語しかしゃべれない中で彼女一人が正確な英語を、それも殊更むずかしい単語や云い廻しを使い、仏蘭西語も独逸語も流暢に話した。
そしてさすがに女将株の貫目もあり、活気もあり、何処やらにまだ姥桜の色香さえもあって、西洋人と云うものは幾つになっても若いものだと感心させたのに、そののち少しずつ気が弱くなり、記憶力が乏しくなり、女子供にも押しが利かなくなってから、急に目に見えて年を取るようになったのである。