こちらはおどろかされたので、一瞬間、すこし無躾なくらいにまじまじと風態を見すえるとその男はべつにたじろぐ気色もなくよい月でござりますなとさわやかなこえで挨拶して、いや、御風流なことでござります、じつはわたくしも先刻から此処におりましたなれども御清境のおさまたげをしてはと存じてさしひかえておりましたがただいま琵琶行をおうたいなされましたのを拝聴しまして自分もなにかひとくさり唸ってみたくなりました、御迷惑でござりましょうがしばらくお耳を汚させてくださいませぬかという。
見も知らぬ人がこういう風に馴れ馴れしく話しかけるのは東京ではめったにないことだけれどもちかごろ関西人のこころやすだてをあやしまぬばかりかおのれもいつか土地の風俗に化せられてしまっているのでそれは御ていねいなことです、ぜひ聞かせていただきましょうと如才なくいうとその男はきゅうに立ってまたざわざわとあしの葉を押し分けてわたしの傍へ来てすわりながら、失礼でござりますがひとついかがでござりますと自然木の杖に結いつけてある紐をほどいて何かを取り出した。
みれば左の手に瓢箪を持ち右の手にちいさな塗り物の盃を持ってわたしに突きつけているのである。