しかしそんなことよりも見も知らぬ人のまえでこんな工合に気やすくうたい出してうたうと直ぐにその謡っているものの世界へ己れを没入させてしまい何の雑念にも煩わされないといった風な飄逸な心境がきいているうちに自然とこちらへのりうつるので、わざは上達しないでもこういう心境をやしなうことが出来るものならば遊芸をならうということも徒爾ではないように思われてくる。
いや、結構でございました、おかげさまでいい保養をしましたというとせわしそうに息をはずませて先ず乾いた口をうるおしてからまた盃をわたしにさしてさあいま一つおかさねという。
まぶかに被っている鳥打帽子のひさしが顔の上へ蔭をつくっているので月あかりでは仔細にたしかめにくいけれどもとしはわたしと同年輩ぐらいであろう、痩せた、小柄な体に和服の着流しで通行のように仕立てたコートを着ている。