わたくしもまたこの月を見まして過ぎ去った世のまぼろしをえがいていたのでござりますとしみじみとそういうのである。
お見受け申すところあなたも御年輩のようですがとわたしはその男の顔をのぞきこみながらいった、おたがいにこれは年のせいですな、わたしなぞ、ことしは去年より、去年はおととしより、一年々々と、秋のさびしさというか、あじきなさというか、まあ一とくちにいえばどこからともなくおとずれてくるまったく理由のない季節の悲しみというようなものを感じることが強くなります、風のおとにぞおどろかれぬるといいすだれうごかし秋のかぜ吹くという、ああいう古歌のほんとうの味がわかってくるのはわれわれのとしになってからです、さればといってかなしいから秋はいやかというのにあながちそうでもありませぬ、若い時分には一年じゅうで春がいちばん好きでしたけれどもいまのわたしには春よりも秋のくるのが待たれます、人間はとしをとるにつれて、一種のあきらめ、自然の理法にしたがって滅んでゆくのをたのしむといった風な心境がひらけてきて、しずかな、平均のとれた生活を欲するようになるのですね、ですから花やかなけしきを眺めるよりも淋しい風物に接する方が慰められ現実の逸楽をむさぼるかわりに過去の逸楽の思い出にふけるのがちょうど相応するようになるのではありますまいか、つまり、往時をしたう心持は若い人には現在と何のかんけいもない空想にすぎませんけれども老人にとってはそれ以外に現在を生きてゆくみちがないわけです。
いかにも、いかにも、仰っしゃるとおりでござりますとそのおとこはしきりにうなずいて、普通のお方でもお年をめすとそうなるのがあたりまえでござりましょうがわけてわたくしはまだおさない時分十五夜の晩に毎年父につれられて月下の路を二里も三里もあるかせられたおぼえがあるものでござりますからいまだに十五夜になりますとそのころのことがおもい出されるのでござります、そういえば父も今あなたさまが仰っしゃったようなことを申してお前にはこの秋の夜のかなしいことがわかるまいがいずれは分るときがくるぞとよくそんなふうに申したものでござりますという。