此の話はいかにも哀れで、敗将の児の運命はこうもあったであろうかと思われ、一掬の涙を催さしめるが、しかし隼人正の生涯については諸書の所伝がまち/\であって、必ずしも豊内記の説くところと一致しない。
今試みに渡辺世祐博士の「稿本石田三成」に依ってそれらの異説を列挙すると、隼人正は関ヶ原合戦の当時佐和山にいたのではなく、毛利輝元、増田長盛、長束正家等の嫡子と共に人質として大坂城内にいたのであるが、一説には、九月十九日の夜、乳母や津山甚内と云う武士に扶けられて大坂を逃れ、京都に来て妙心寺の寿聖院に入ったので、寺からその旨を所司代奥平信昌に届け出たところ、やがて家康から助命の沙汰が下った。
依って剃髪して宗享と号し、後には寿聖院第三世の大禅師となり、貞享三年閏三月八日を以て寂したと云う。