但し「稿本石田三成」は云う、「三成の娘に就きて考へんに関ヶ原役後まで生存せしものありしは、確に事実なり。
板坂卜斎覚書にあるが如く、家康は関ヶ原役後、当時敵となりし人の妻及び娘は皆これを宥したり、その将軍となりし時も、嘗て敵となりし人々の婦女も京都堀川にてその行装を見物せりと云ふ。
されば佐和山にて戦死せし正澄の妻も、何の咎もなく慶長十二年まで生存し、その二月廿八日に歿し、三成の娘も後まで生存せしものありき」と。
但し「稿本石田三成」は云う、「三成の娘に就きて考へんに関ヶ原役後まで生存せしものありしは、確に事実なり。
板坂卜斎覚書にあるが如く、家康は関ヶ原役後、当時敵となりし人の妻及び娘は皆これを宥したり、その将軍となりし時も、嘗て敵となりし人々の婦女も京都堀川にてその行装を見物せりと云ふ。
されば佐和山にて戦死せし正澄の妻も、何の咎もなく慶長十二年まで生存し、その二月廿八日に歿し、三成の娘も後まで生存せしものありき」と。